まほろばスタイル

旅、文学、伝統文化、神社仏閣、日本の魅力再発見

「ところで一体あなたは誰ですか」

焼け跡にうち捨てられし鉄帽に蝌蚪(かと)生(あ)れし朝わが生目覚む

母われとわが死を産みき灯の壁の小面が裏にためる暗黒

寺山修司が蒐め遺せし幾百の消しゴムよ、起きてわが退路消せ  

小川太郎『路地裏の怪人』

 

三歳で終戦を迎え、東京の焼け跡を歌の原郷に持つ小川太郎さんは、同人誌「開放区」時代の憧れの先輩だった。寺山修司に魅了され、小学館の編集者時代は三日と空けず天井桟敷に通ったという。

 

『路地裏の怪人』は小川さんが四十七歳の時の歌集だが、その二年後、彼は寺山修司を語る有志の集い「風馬の会」を発足。九條今日子の賛同を得、美輪明宏吉本隆明などのゲストを迎えた全十回の講演会を開催した。その講演録を一冊にまとめたのが一九九三年刊行の『寺山修司の世界』である。

 

毎回、席がなくなるほど人が集まったこと、会が回を重ねるうちに、今度はマスコミが膨大な「寺山修司情報」を発信しはじめたこと。ともに、私には予想外のことであった。私の思いと「時代の思い」がかくも一致することは、おそらく私の生涯に二度とないだろう。

寺山修司の世界』あとがきより

 

忘れられないことがある。開放区誌上での拙歌集評を小川さんにお願いした。そうしたら土曜日の早朝に電話があった。私に直接会ってインタビューしたいという。

 

「歌集評書けって言われてもね、僕あなたのことよく知らないから」。確かに同人の交流は、年に数回の歌会とその後の飲み会くらいのものだったが、ほとんど、あるいは全く面識のない人の歌集評を書くことだって珍しくない。ましてや小川さんほどの筆力のある人が、歌集評を書けないとは?

 

それでも彼は、インタビューしないと書けないと言って引き下がらない。しかし私は数日後に海外旅行を控えていた。結局また翌日の朝、インタビューのための電話がかかってきた。深層心理まで炙り出されそうな直球質問の数々に、冷や汗滲む思いになったのを覚えている。だが、自分は歌によって何をしたいのか、その時ほど真剣におのれの心に問いかけてみたこともなかった。

 

そして、そのインタビューが小川さんと交わした最後の会話になった。旅行から帰ってひと息ついていた八月のある日、小川さんの訃報が届けられた。

 

寺山は、巧みな聞き手であったという。

 

寺山が構成し、一九六六年に放映されたテレビドキュメンタリー「あなたは…」では、街頭の人々に「あなたにとって幸福とは何ですか」「あなたは人に愛されていると感じることがありますか」など、十七項目の質問を機関銃のようにぶつける。最後は「ところで一体あなたは誰ですか」で終わる。

 

少年時代から寺山にあこがれ、半生をかけて寺山修司という謎に挑み続けてきた小川さんは、寺山同様、もしくは寺山以上に人間が好きで、作品の底に流れる歌人の生きざまに、情熱と誠実さをもって耳を傾けてきた。

 

ところで一体あなたは誰ですか――。

 

二十二年前のあの日、対面インタビューにこだわった小川さん。五十歳になった今、懐しい故人と対話するような思いで『路地裏の怪人』を読み返しながら、あのとき小川さんは私にそう問いかけていたのだと気づいた。

 

(2023年「チメイタンカ」掲載)

 

 

 

 

授かりしもの

いったん私が書いてしまった以上、詩行はもはや私には何の関わりもありません。すでに述べたとおりで、詩行は聖霊から、潜在的な自我から、あるいは別の作者から授かったものであるからです。私はしばしば、自分はしばらく前に読んだものを引用しているに過ぎないことを実感します。そしてそれが再発見にも繋がるのです。詩人というのは、恐らく、無名の存在である方がよろしいのでしょう。

(J.L.ボルヘス『詩という仕事について』)

 

ケルトの言葉に「白い殉死」と訳されるものがある。初期キリスト教の修行僧たちは大修道院の生活を捨て、放浪と苦行を重ねた末に人里離れた場所に庵を結んだ。彼らはまた、多くの美しい詩を書き残したという。

 

この「白い殉死」の現場を訪ねたいという思いに駆られ、二十代最後の夏にアイルランドスケリッグ・マイケルへ旅した。南西部沖合十六キロにある島への上陸は夏季限定、船が出るかは海の天候次第。そんな厳しい条件をクリアし、漂流民のように大西洋の荒波に小船で二時間以上揺られ、念願の聖地にたどり着くことができた。

 

修行僧が作った六百段の石段を登った頂上に、世界遺産にも登録されている修道院跡がある。蜂の巣小屋と呼ばれる石積みの小屋の窓から夏の陽光に煌めく大西洋を眺めつつ、この絶海の孤島で生涯を閉じた無名の詩人たちに思いを馳せた。ここは死者の魂が行く黄泉の国であり、彼らは神の国への入り口を護る番人だった。無私の心で祈りを捧げ、聖詩を唱え、鳥や獣たちと仲良く暮らす日々の中で、聖霊から美しい詩を授けられたのだ。

 

 世の中はいづれかさして我がならん ゆきとまるをぞ宿と定むる  よみ人しらず

古今和歌集 巻第十八 雑歌下 九八七)

 

折に触れて読み返す古今和歌集を、帰国後にもひも解いた。その時々の心理や経験によって、立ち止まる歌が変わる。この時は右の歌を含むいくつかの歌に立ち止まり、自分はやまとうたの森の、さらに奥深くへと分け入っているのだという感慨に打たれた。

 

 

この旅からほどなくして、私は歌作を離れた。当時、自作短歌の朗読活動に熱心に取り組んでいたのだが、衆人環視の中で私性を前面に押し出した自作短歌を朗読することに、精神のストリップともいうべき苦痛を感じるようになっていた。スケリッグ島への旅も、活動をいったんストップしてみようと考える契機になったと思う。それから歌の世界に戻るまでに、十年を要した。

 

どうにか歌作を再開したものの、自分の歌の方向性が見いだせず、悶々としていた。そんな折、訪日観光客向けに日本の伝統文化体験を提供するプログラムにおいて、俳句体験の通訳サポートをする機会があった。ゲストは漱石を愛読しているというスペイン人の男性で、芭蕉を読んでいる友人の影響で俳句にも興味を持つようになったという。

 

プログラムは谷中の商店街を歩くことから始まった。男性と先生と私の三人、店先に揺れる風鈴、大きな生ビールのサーバーなど、目に留まったものについて気ままなおしゃべりを交わしつつ、茶室を備えた小さな一軒家に到着。筆や和紙に関する話、うちわに描かれた俳画などひととおり楽しんだあと、俳句の創作に取りかかった。

 

来るまでに目にしたものから俳句のテーマとなるアイテムをゲストにひとつ選んでもらい、場面設定をする。テーマと場面が決まったら、そこから導き出されるイメージや感情を作品のなかに落とし込んでいく。先生の言葉をていねいにノートに書きとめ、時おり自分の意見や思いを交える。先生の導きに従い、瞑想するように目を閉じて、イメージの再現に忠実であろうとする。そんな二人のやり取りは、禅問答の一場面を見ているようでもあった。

 

そうして選ばれた「南部風鈴」をテーマに出来上がったのが、

「軒風鈴 古里おもふ 山河かな」。

 

正直に言うと、この句を私がどう英訳したか、創作途上での先生の言葉をどう通訳したか、ほとんど記憶にない。だがゲストからは後日、「大変良い内容だった。友人を連れてまた参加したい」とメールが届いたとのことだから、少なくとも私の未熟な通訳のせいでプログラムの良さが損なわれたなどということはなかったようで、ひと安心した。思うに、プログラムの構成が優れていたので、通訳の力量はあまり関係なかったのかもしれない。

 

だがそれ以上に、この句はボルヘスの言葉を借りて(日本式に)言うなら「精霊から授かった」ものであり、私たちの「潜在的な自我」の交感がなせる業だったのではないか。俳句に精通した人からは失笑を買うかもしれないが、私には、俳句とは瞬間の美に殉死しているのだ、と思われる時がある。「白い殉死」の実践者のように自然に心を同化させつつ、信ずるものを追い求める道程で、私たちは聖霊や精霊のもたらす詩の依り代となることができる。同時にそれは、死に向かって着実に歩を進めることでもあるのだ。

(「六花」2025. 12 VOL.10 掲載)

 

 

尋ね人

鎌倉の長谷寺で〈和み地蔵〉を眺めながら、私は以前に都内の朗読教室で聴いた、Kさんの朗読のことを思い出していた。Kさんは和み地蔵のような穏やかな表情が魅力的な九十二歳の男性で、教室の中でも人一倍熱心に朗読を学んでいた。その教室の仲間の前でKさんは、『戦火をくぐった唄』(西村 滋著)の登場人物〈フー公〉の物語を、約二十五分にわたって朗読した。

 

養護施設で暮らす戦争孤児のフー公は、富士山が大好きな十歳の少年。しょっちゅう柿の木に登っては、大声で「ふじの山」を歌って、施設の先生たちをハラハラさせている。

 

あたまを雲の上に出し

四方の山を見下ろして

 

ゆっくりとした足取りで教室の前方に歩み出たKさんが、勧められた椅子には目もくれず直立不動で「ふじの山」を歌い出したとき、私は文字通り椅子から転げ落ちそうになった。あまりに調子はずれなその歌いぶりに、教室の大半がうつむいて笑いをこらえている。しかしKさんはおかまいなしに歌い続ける。素なのか、それとも音痴なフー公を演じているのかさえ、分からない。

 

かみなりさまを下に聞く

ふじは日本一の山

 

しかし、物語の展開に耳を澄ませる私たちの表情は、次第に神妙なものに変わり始める。ある日フー公は、ラジオ番組「素人のど自慢」に出たいと言い出すのである。

 

「おまえがのど自慢だって!?」初めは大笑いしてとりあわなかった園の先生たちだったが、番組出場を願うフー公の真の意図に気づいたとき、誰も笑えなくなる。戦後の一時期、「たずね人の時間」というラジオ番組があった。戦時中に離ればなれになった親族や友人を探すための番組だったが、「素人のど自慢」もまた、そのたずね人番組のような役割を兼ねていたのである。

 

「お父さん、お母さんがどこかで番組を聞いているかもしれない――。」両親の生存を信じるフー公は、のど自慢に出ることで、両親との再会に一縷の望みをかけたのである。

 

先生と一緒に何十枚もの応募はがきを書き、フー公はみごと出場権を射止める。そしていよいよ念願の日、司会者にうながされて舞台に立ったフー公は、頼まれもしないのに大声で自分の名前を連呼する。

 

「深沢文男です! 深沢文男です!」

 

歌はもちろん「ふじの山」だ。演奏が始まるや否や、「そんな速い演奏じゃ、富士山の大きさが出ないよ!」などと奏者に注文をつけたりして、会場に笑いの渦を巻き起こすフー公。そして、今やKさんの朗読の世界にすっかり引き込まれ、のど自慢会場の観客の一部と化した朗読教室の私たちも、声をあげて笑う。

 

しかしそれは、冒頭にKさんの歌を聴いたときの笑いとはもはや別のものだ。私たちの目の前にいるKさんは、小さな胸に悲しみを抱えながら精一杯に今を生きる、フー公そのひとなのである。

 

文庫本か何かで読んでいたらおそらく涙でボロボロになっていたであろう、物語のクライマックス。けれど私は泣かなかった。それよりも、昨日まで見ず知らずの人だったKさんに、小さな少年の姿を見た感動で胸が一杯になっていた。朗読という空間、時間を通して、ほんのわずかでもKさんと自分の人生が交差したことに、感謝した。

 

 

穏しかる時代を生き来しわれらなり申歳列車(モンキートレイン)どこへか向かふ 

                                  青木春枝

戦地へと赴く父を幼らと送りましけむ身重の母は            小柳素子 

父の日の父の顔など知らなくて戦争(いくさ)に生れき海ただ碧く    玉城洋子

七十年吾は老いたり若き日の写真の父はややに黄ばみて        長谷川富市

忘れ去られて死語となりゆけ「尋ね人」「孤児」またそして「引揚げ者」など 

                                  林田恒浩

悲しみをかなしみつづける父がゐる南十字星の心臓のあたり       南 輝子

 

二〇一六年刊行の『モンキートレインに乗って72』(ながらみ書房)から引いた。昭和十九年生まれ四十五名によるアンソロジーで、昭和五十八年の第一集から数えて五冊目となる。昭和十九年というと太平洋戦争末期、Kさん世代を親とし、フー公よりやや下の世代である。

 

敗戦直後の困難な時期に自分を育ててくれた父や母との思い出の中に、彼らの戦争体験がある。あるいは、生まれた頃には父親は既に戦地の人、その顔を知らずに育ったという人も多い。「身重の母」のお腹にいたのは自分であり、父親の面影を碧い海原に、黄ばんだ写真に、夜空の南十字星に探ろうとする。

 

フー公がラジオで歌って両親に呼びかけたように、彼らは歌を詠むことで心の父に呼びかけているのかもしれない。モンキートレインに乗って歌の旅を続ける彼らにとって、「尋ね人」が死語になることは決してないであろう。

 

 

橘曙覧「独楽吟」

大河ドラマ「べらぼう」の最終回に本居宣長が登場した。宣長の生地、三重県松阪市には母の生家があり、松阪城跡公園には幼いころ祖父母に連れられてよく遊びに行ったものだ。松阪城二の丸跡には、本居宣長の旧宅「鈴屋」が一般公開されている。

本居宣長記念館公式ホームページ〉

https://www.norinagakinenkan.com/

 

歌人としての評価はイマイチの宣長だが、その門流「鈴屋派」はすぐれた歌人を輩出したことで知られる。なかでも正岡子規に「歌人として実朝以降ただ一人なり」と絶賛されたのが、橘曙覧である。

その歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず真淵、景樹の窠臼に陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し鎖事俗事を捕え来りて縦横に馳駆するところ、かえって高雅蒼老些の俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆を攄くもの、もって識見高邁、凡俗に超越するところあるを見るに足る。 (正岡子規「曙覧の歌」)

橘曙覧は江戸末期、福井城下の紙商の家に生まれた。父親の死後いったんは家業を継いだものの、商売が性に合わず、異母弟に家督を譲って学問を志す。宣長の高弟田中大秀に私淑し、和歌と国学に打ち込んだ。市井の人でありながら、足羽山中腹に庵を結んで隠遁者のように歌道に邁進した曙覧は、つましい暮らしの中にささやかな幸せの種を見つける天才であった。

たのしみは朝おきいでで昨日まで無かりし花の咲ける見る時 
たのしみはまれに魚烹て児等皆がうましうましといひて食ふ時
たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時

『志濃夫廼舎歌集』の中に「独楽吟」と題して収録されている五十二首のうちから、特に私の好きな歌を引いた。なかでも一首目は平成6年、天皇皇后両陛下が訪米された折、クリントン大統領が歓迎スピーチにおいて引用したことで有名になった。橘曙覧という歌人の魅力が、異国の地から現代人に再発見されることになったのだ。平成6年といえば、バブルが崩壊し失われた20年へと突入する入口の時期にあたる。新しい価値観へのシフトを余儀なくされていた当時の人々にとって、日常の些事に幸福を見出すという「独楽吟」の世界は、自らを重ねやすいものとして歓迎されたことであろう。

だが「独楽吟」に流れる曙覧の人生観を読み解く上で見過ごしてはならないと感じるのは、同集に収められている次のような歌である。

灯火のもとに夜な夜な来たれ鬼 我(わが)ひめ歌の限りきかせむ
人臭き人に聞(きか)する歌ならず鬼の夜ふけて来ばつげもせむ

「戯れに」と題して、自身の歌に対する矜持を詠んだ四首連作のうちの二首である。子規は、戯れになどと言ってはいるが「その裏面には実に万斛の涕涙を湛うるを見るなり」と述べている。独楽吟の素朴さ、邪心のなさ、何より苦労の中にも「たのしみ」を見つけ、超然と生きることのできる心の有り様とは、その裏で流した幾多の涙あってのものである。そうした自分の歌の真髄を理解できるのは、鬼のような人智を超えた存在でしかないと感じている。

裏面に「万斛の涕涙」を湛えつつ、その作風に世捨て人の気取りはなく、生活欲を自然に、おおらかに詠いあげる。その高みに到達した者だけに現れる鬼なら、いつか私にもお目にかかりたい。

 

 

『茶論』のお稽古初級四日目「濃茶に親しむ」

本日、茶論の初級コース四日目「濃茶に親しむ」。
フォーマルな茶事の主役、濃茶を初めて頂きました😲

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薄茶の倍の量の茶葉で練られた濃茶はチョコレートのようにトロリと濃厚で、強いうまみを感じました。

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濃茶と薄茶では、濃茶が「格上」なわけですが、元々はひとつのもの。鎌倉時代に抹茶法が伝来し、喫茶文化が広まった室町時代に至っても、両者の区別はありませんでした。

それが、安土桃山時代に記された詳細な茶会の記録『天王寺屋会記』に、濃茶と薄茶という表記が初めて登場したと言われています。

濃茶の作法ですが、一碗の茶を複数の客が順服する「回し飲み」で頂きます(お稽古ではご時世もあり、各自一碗で頂きました)。これは、皆で同じ飲食を味わうことで心を一つにする「一味同心」の精神に基づきます。

キリスト教のミサでは、聖杯のぶどう酒を回し飲みする儀式がありますが、千利休はこれを見て茶道に取り入れたのではないかとも言われています。

異文化の要素を積極的に取り入れる先進性、既存の常識にとらわれない柔軟な感性。茶の湯が拡がりと深まりを見せる上で、利休のプロデューサーとしての優れた手腕がいかに力を発揮したか、伺えるようなエピソードです。

茶事は、一汁三菜の懐石料理と濃茶、薄茶が出される最も正式な茶会。最長で四時間にも及ぶ、フルコースです。茶事に参加することをひとつの目標として茶道のお稽古をしているという人も多いそう。

私もいつかは参加してみたい✨

さて、12月はクリスマスということで、しつらえのテーマは異国情緒。

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写真の美しい銀製の蓋物は、タイのチェンマイにある銀工芸の街で作られた、南鐐銀の小物入れを香合に見立てたもの。

そして掛物は、羊皮紙製の祈祷書!500年くらい前のものだそうです。

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主菓子は「星霜」。もみじに霜の降りた様を表しているとのこと。季節感は主菓子の銘にも反映されます。

大変美味しゅうございました😍

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よこはま紅葉散歩②

横浜公園を出て、日本大通りへ向かいます。

日本大通りは、横浜公園と港を結ぶ目抜通り。完成は明治3年頃、歩道と植樹帯を広く取った日本初の西洋式街路です。

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横浜公園では、色とりどりの紅葉が和の空間に華を添えていましたが、こちらは黄金一色のイチョウ並木。道幅36m、ヨーロッパを思わせる洗練された街路の両脇に整然と並ぶ、シンメトリカルな美しさです。

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この日本大通り沿いは、歴史的建造物の宝庫。戦前から続く由緒ある建物が並びます。

まずはその代表格として、旧横浜商工奨励館。関東大震災によって廃墟と化した横浜の復興事業として、昭和4年に建てられました。

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横浜三塔のひとつ、愛称「キング」で知られる神奈川県庁本庁舎。

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そしてこちらはKN日本大通りビル。三井物産横浜支店の事務所棟として1911年に竣工。日本初の全鉄筋コンクリートの建築です。

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今回は中まで入らなかったのですが、ここには手動式扉のエレベーターがあるそうで、次回は要チェックです。

イチョウの色づくこの季節が、日本大通りの最も美しい時なのではないでしょうか。クリスマスイルミネーションが点り始めた黄昏時、「gooz」の店内焙煎のコーヒーを飲みながらオープンカフェで過ごす時間は、格別でした。

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よこはま紅葉散歩

紅葉の見頃も終わりに近づいていますね。
先日、関内で紅葉を楽しんできました。

まず向かったのは、横浜スタジアムのある横浜公園。市内では山手公園に次いで古い西洋式公園です。

開港間もない1876年、在留外国人の生活改善の一端として遊郭跡地に整備された横浜公園。日本人も使用できたことから、「彼我(外国人と日本人)公園」と呼ばれていたそうです。

公園は1909年に「横浜公園」と改称されますが、横浜スタジアムが建設された1978年、公園内に日本庭園が整備されます。そして2017年「第33回全国都市緑化よこはまフェア」時の再整備を経て、日本庭園部分が「彼我庭園」と名付けられました。

それで、入り口の木塀も瓦も真新しい感じなのですね。

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ちなみに屋根の瓦は、横浜発祥のフランス瓦である「ジェラール瓦」のレプリカ。細部にこだわりが光ります。

さてさて、この「彼我庭園」が、紅葉の穴場スポットなのです。

庭園は池泉回遊式庭園。こぢんまりとしてはいますが、モミジ、イチョウ、常緑樹などの取り合わせが、実に色彩豊かな紅葉の風景を作り出しています。

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敷地内には蹲踞もあり、紅葉との相性は抜群。

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都心の庭園の面白さは、豊かな緑を取り囲む高層ビルとのコントラストにあると思いますが、こちらは横浜スタジアムに隣接しているので、試合やイベントのある日には歓声が響き渡ります。

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私の訪れた時も、イベント(おそらくベイスターズのファンミーティング)で賑やかでした。

この後、お隣の日本大通りに向かいましたが、それは次回の記事で。

日本大通りからふたたび彼我庭園に戻ってきた時は、ライトアップされた紅葉が幻想的な雰囲気を醸し出していました。

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